白い杖愛護作文
第68回 白い杖愛護作文受賞者
小学校低学年の部
賞 | 学 校 名 | 学年 | 受賞者名 | 題 名 |
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最優秀 | 甲府市立新田小学校 | 2 | 鍋坂 優衣 | しることからはじめよう |
優秀 | 甲府市立里垣小学校 | 1 | 竹内 奏絵 | たいせつなもの |
小学校高学年の部
賞 | 学 校 名 | 学年 | 受賞者名 | 題 名 |
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最優秀 | 甲府市立大国小学校 | 6 | 小澤 瑛叶 | 共に生きる社会へ |
優 秀 | 甲府市立朝日小学校 | 5 | 藤田 彩花 | 過ごしやすい町 |
優 秀 | 甲府市立羽黒小学校 | 5 | 輿石 結愛 | ゆめに向かって |
優 秀 | 韮崎市立韮崎北西小学校 | 6 | 功刀 花菜 | 盲導犬について知ってください |
優 秀 | 富士吉田市立吉田小学校 | 6 | 堀内 うた | 祖母と私 |
優 秀 | 山梨学院小学校 | 5 | 吉田 怜一 | 音を頼りに・・・初ブラインドサッカー |
中学校の部
賞 | 学 校 名 | 学年 | 受賞者名 | 題 名 |
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最優秀 | 甲府市立城南中学校 | 1 | 渋谷 菜桜 | おじいちゃんが教えてくれたこと |
優 秀 | 甲府市立南中学校 | 1 | 宮下 結衣 | 私の知らない世界 |
優 秀 | 甲府市立北西中学校 | 1 | 塚原 健二 | 点字と僕 |
優 秀 | 甲府市立城南中学校 | 1 | 水原 ありす | 知ることで変わる世界 |
優 秀 | 山梨大学教育学部付属中学校 | 1 | 堀之内 颯 | 輝ける場所 |
優 秀 | 山梨英和中学校 | 1 | 古屋 優 | 見えないとは、どんな事なのか・・・ |
高等学校の部
賞 | 学 校 名 | 学年 | 受賞者名 | 題 名 |
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最優秀 | 甲斐清和高等学校 | 2 | 笹井 彩音 | 多様性を認め合う |
優 秀 | 山梨県立山梨高等学校 | 1 | 遠藤 優那 | 私にできること |
優 秀 | 山梨英和高等学校 | 2 | 中村 真菜 | 関心を持って根拠を知ろう |
優 秀 | 甲斐清和高等学校 | 2 | 櫻井 優成 | 目が見えている大切さ |
優 秀 | 甲斐清和高等学校 | 2 | 山本 開登 | 個人的に「視覚障害者体験」をした話 |
優 秀 | 甲斐清和高等学校 | 2 | 名取 歩菜 | 白い杖のおじさん |
第68回 生活体験文受賞者
児童生徒の部
賞 | 部・科および学年 | 受賞者名 | 題 名 |
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最優秀 | 盲学校高等部本科普通科2年 | 楠 光翔 | 視覚障害になって歩んだ私の道 |
優 秀 | 盲学校小学部5年 | 星野 春 | 自信につなげて |
優 秀 | 盲学校高等部本科普通科1年 | 山口 穂乃華 | 白杖を持って変わった心 |
優 秀 | 盲学校専攻科理療科1年 | 佐藤 綾 | 私を変えた出会い |
一般の部
賞 | 住 所 地 | 受賞者名 | 題 名 |
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最優秀 | 笛 吹 市 | 影山 笑美子 | 私の老後生活 |
優 秀 | 富士河口湖町 | 桜林 正司 | 72歳の挑戦 |
優 秀 | 富士吉田市 | 須澤 憲治 | 駅で転んだ話 |
優 秀 | 身 延 町 | 平田 政夫 | 手さぐりでも一流の草取り名人に・・・ |
白い杖愛護作文最優秀作品
《小学校低学年の部》
しることからはじめよう
甲府市立新田小学校二年 鍋坂 優衣
わたしはいえの近くで、もうどう犬といつもいっしょに歩いている人をよく見かけます。
ようち園生のとき、もうどう犬になるためのくんれんをしている犬の話をテレビで見ました。そのときに「いつも車から見かけるワンちゃんも、この子と同じで、もうどう犬っていうんだよ。」とおかあさんに教えてもらいました。おしごと中のもうどう犬にさわったり、たべものをあげたりしてはいけないこともしりました。くんれんをして、目のふじゆうな人をたすけているなんてすごいなぁ、と思い、いつも見かけるあのもうどう犬も、とてもかっこよく見えました。ただ、目が見えなくて、もうどう犬もいない人はどうやって生かつしているんだろう、どうやって行きたいところに行くんだろう、とふしぎに思いました。そこでおとなの人に聞いたり、ドラマを見たりして、白いつえのことや点字ブロックのことをしりました。すると、いつも見ているばしょに、目のふじゆうな人のためにつくられたものがあることに、はじめて気づきました。「わたしみたいに気づいていない人がたくさんいるのかもしれない。」と思ったので、それからは「ここに点字ブロックっていうのがあるんだよ。これは目のふじゆうな人があるきやすいようにつけられたしるしだよ。」と、まわりの人にも話すようにしています。
わたしは、目のふじゆうな人も、そうじゃない人も、みんながえがおですごせる社会になってほしいと思っています。そのために、わたしもこまっている人がいたら、声をかけたり、お手つだいができるゆうきをもちたいです。いつも見かけるあのもうどう犬みたいに、やさしく、かっこいい人になれるようにがんばります。
《小学校高学年の部》
共に生きる社会へ
甲府市立大国小学校六年 小澤 瑛叶
僕は栗木二仁さんと出会い、言葉の大切さや思いやりの心について学んでいます。栗木さんは小学生の時に全日本少年サッカー大会に出場し、全国優勝と得点王に輝いた方です。その後、二十八歳でベーチェット病になり、三十五歳で両目が見えなくなりました。
僕が栗木さんと出会ったのは、昨年、ブラインドサッカー大会のボランティアと体験会に参加した時です。体験会ではアイマスクをして音の出るボールをドリブルしました。最初は正直怖かったのですが、栗木さんや皆さんの声や拍手のおかげで落ち着いてドリブルできました。体験して初めて目が見えない人には音や声がどれだけ大切か分かりました。
栗木さんは山梨からパラリンピックに出場する選手を育てたいと話していました。キーパーは晴眼者もできるので、僕もその一人になれるように頑張りたいと思っています。
栗木さんは僕が通うサッカースポーツ少年団の試合を観に来てくれます。いつも「頑張ってね。」と応援してくれるので、「絶対勝って恩返しする」という気持ちになります。また、一緒に買い物もします。僕の肩に手を置いて欲しい物を探します。僕は離れないようにゆっくり歩きます。左右に障害物があったら「段差があるので気を付けて下さい」と声をかけます。今年六月、サクランボ狩りにも行きました。サクランボが採れない栗木さんのために、カゴいっぱいまで頑張りました。八月、栗木さんの講演会に参加しました。料理やトイレなども工夫していて「障がいを言い訳にしない」と教えてくれました。何でも挑戦する栗木さんはとてもかっこいいです。
僕は栗木さんと出会い、視覚障がい者の方がもっと住みやすい社会にしたいと思っています。そのために僕は、学校や地域で視覚障がいを理解してもらえる機会を設けたいです。
《中学校の部》
おじいちゃんが教えてくれたこと
甲府市立城南中学校一年 渋谷 菜桜
「孫を抱く我が目に顔は映らねど
この手いっぱい命あふるる」
これは私の祖父が書いた短歌です。この短歌を見た時、なぜか心の強さを感じました。
気になったので母に話を聞いてみました。
祖父は目が見えませんでした。私が産まれた二ケ月後に亡くなったそうです。母はこのことを「命のバトンタッチ」と言います。祖父は六才の時に事故で両目を失い、目の見えない生活が始まりました。それでも、盲学校へ行き、マッサージの勉強をしてマッサージ屋を開いたりと、すごくがんばっていました。
その実力は、店を閉じた今でも電話がかかってくるほどです。目が見えなくても見える人と同じように、道を歩いたり、楽器を演奏したり、自分の世界をつくっている人だったそうです。子どもが大好きで、短歌をよく書いていました。目が見えなくても、見える人のように生きられる祖父はとてもかっこいいなと思います。目が見えないことを怖いと思わずになんでもやった祖父は、自分よりもずっと心が強いんだと感じました。目の見える人は、やろうと思えばできることがたくさんあります。なので私は、目の見えない人の役に立てることを実行し、やろうと思ったことをやり通せる人になる努力をします。
ある時、母が祖父に「目が見えなくて不便じゃないの?」と聞くと、祖父はこう答えたそうです。
「そんなことないよ。俺はこの障害で良かったと思ってる。だって、目が見えないと人の心が分かるから。」
母からこの話を聞いた時、こんなに前向きにそして何事にも挑戦できる人はそういないと感じ、祖父を心から尊敬しました。祖父が、前向きに考え、挑戦するには勇気がいるが、その先には楽しいことがあると教えてくれた気がしました。
祖父は、点字の読み書きが速かったそうです。目が見えない人は指先が目なんだと母は言います。母たち三人姉妹も点字が分かります。祖父の「点字で伝え合いたい」そんな願いが届き、母たちは点字の読み書きを練習したそうです。私も点字の練習をして、点字で手紙がかけるようにがんばろうと思います。
私には、目の見えない祖母もいます。身近に祖父や祖母がいてくれたことで、視覚障害者への想いが強くなりました。私は人とコミュニケーションをとるのが苦手だけど、これからは、視覚障害者を見かけたり、困っていたら、勇気をもって話しかけたいと思います。祖母の手伝いも積極的にやろうと思いました。そして、何にでも挑戦する強い心をもって、生活をしていきたいです。
最後に、おばあちゃん、おじいちゃん、本当にありがとう。
《高校の部》
多様性を認め合う
甲斐清和高等学校二年 笹井 彩音
幼い頃の私は、「障害」という言葉は知っていても、自分にとって身近なものだとは感じずに生活していました。ですが、小学校中学年の夏、私の心に大きな変化をもたらした一人の男の子との出会いがありました。
その男の子は、低学年のときは私たちと同じようにごく普通の、元気な子だったそうです。しかしずいぶんと長期にわたって欠席していて、また学校へと帰ってきたとのことでした。戻ってきたその子は以前と違って視覚に障害があり、誰とも話すこともなく教室の自分の席に一人で座っていました。当時の私はその男の子を見て、「かわいそう」「この子と関わりたくない」と、とっさに思ってしまいました。クラスメートも、なかなか近寄ろうとしませんでした。
すると、そんな私たちに担任の先生は、視覚障害について、そして障害のある人とどう関わっていったらいいかについて、丁寧に教えてくれました。障害があるからといって、不必要に特別扱いしたり、何か面倒なことに巻き込まれるのではないだろうかと遠ざけたりする行為が、どれだけその人の心を傷つけることなのか。先生の話からそれを理解した私は、自分はなんて冷たい人なのだろうと恥ずかしさでいっぱいになりました。
それから私はその男の子と仲良くなりたいと思い、その子のことを知りたいと話に耳を傾けたり、逆に私のことも知ってもらおうと自分の話もしたりするようになりました。クラスのみんなもそれは同じだったようで、男の子は最初は口を開くことはほとんどなかったものの、日が経つにつれ次第に笑顔が増えていきました。最初はあんなにも近づくことに抵抗があったのが噓のように、よく話すようになるとその男の子とは気が合い、小学校を卒業するときにはとても良い友達になることができました。高校生となった今でも、当時のことを懐かしく思い出します。
「ノーマライゼーション」という言葉があります。私は身近に障害がある子がいて、関わり合えたということを本当に良かったと思っています。障害がある、というだけで「普通」でない、という風にはじかれてしまう社会はいびつだと思います。高校に入って私は福祉クラスに入り、授業で視覚障害のある方からお話を聞く機会がありました。その方の地域の中でいきいきと暮らす様子を話してくださる姿に、さらにその思いを深めました。
障害者・健常者に二分することなんて本当はできなくて、誰しも得意なことがあり、苦手だったりできなかったりすることがある、それこそが「普通」なのだと思います。一人ひとり個性がある人たちが、共に生きていく社会へ。これからの未来を生きる私たちにはさらに多様性を認め合える社会を創り上げていくことが託されているのだと思います。
生活体験文最優秀作品
《児童生徒の部》
視覚障害になって歩んだ私の道
山梨県立盲学校高等部本科普通科二年 楠 光翔
私は現在盲学校に通うレーベル遺伝性視神経症という難病を抱えた十七歳の高校二年生である。今でこそ盲学校に通っているものの、元々から視力が悪かったというわけではない。視力が悪くなる前は山梨県の工業高校に通い、将来はエンジニアになろうと夢見ていた。しかし、二年前の十月に視界の中に違和感を感じるようになった。部活のソフトテニスではラリー中に視界の中心にボールが来ると、ボールが一瞬消えてしまうようになった。視力の悪化が進んでいったある日、体育祭の最中に学年主任の先生に呼ばれ、「このまま工業にいたとしても卒業はさせてあげられるが、その先の就職やら、進学やらは面倒を見てあげることがかなり厳しい。」と告げられた。かなり厳しいという言葉の意味は自分でもうすうす気が付いていた。なぜなら、普段の機械を操ったりする授業などで自分だけ寸法がずれまくっていたり、目盛りを読むのが困難であったりとかなり限界を感じていたからである。そのようなことがあり、私は強制的に夢をあきらめざるを得ない状況になった。真っ先に頭によぎったのは、将来への不安だった。私はこれからどのように仕事をし、生活をしていけばよいのか。さらにその時の私は、学校の友達や地元の仲の良い友達に、自分の病気のことをなかなか言い出せずにいた。なぜなら、病気であることをさらけ出すのが怖かったからだ。さらに、言ってしまったら気を使わせてしまいそうで言えなかった。今思えば、その工業高校にいた我慢の一年半は、私の今まで生きてきた十七年間で間違いなく一番辛くきつい時間だった。
しかし、その一年半を通して私は一つの大きなことを学んだ。それは、一人で抱え込んでも何にもよいことなどないということだ。現在では、工業高校の友達や地元の友達には病気のことを話したのだが、いざ話してしまえば不安に思っていたことなど嘘のように楽になった。その時私は思った。「こんなにいい友達ばかりなのに、なぜもっと早く話さなかったのだろう。一人でなんて抱え込むんじゃなかった」と。このことから学んだことは、これから先、辛いことや悩み事は一人で抱え込まずに、信用できる友人などにすぐに相談していくことの重要性だ。
私はこの病気になりよい意味でも悪い意味でも人生を大きく変えられてしまった。今では、病気になる前よりも、人の辛さや痛みに共感できるようになったと思うし、以前の自分よりも人に対して優しい気持ちで接することができるようになり、人として成長できたと感じることができる。私はこの病気になれてよかったなどとは決して思うことはできない。しかし、私はこれから先の人生を、絶対に目のことを言い訳にして物事を投げ出したりしないように歩んでいこうと強く思う。
《一般の部》
私の老後生活
笛吹市 影山 笑美子
私が、青い鳥老人ホームに入所しましたのは、2006年の6月でした。ホームにお世話になりまして、既に16年余りとなっています。ホームでの生活は、それまで自分で描いていた老後とは全く違うものとなりました。ホームに入所する以前は、どんなに充実した日々を過ごしている時でも、頭の片隅には、必ず将来への不安が、潜んでいました。しかし、ホームへの入所が許され、お世話になることが出来たおかげで、そうした長年抱いてきた不安は全く解消されました。この安心感は、何よりの喜びであり感謝でした。ホームのお一人お一人は、私にとりまして、大切な仲間であり、家族でもあります。食堂で皆さんと共に食事をする時などは、おいしい食事をいただきながら一人ではないことをしみじみ感じ喜びがこみ上げてきます。職員の方々のあたたかい言葉がけと見守りの内に、利用者の皆さんとの、たわいもない会話に笑いあっている穏やかな日々の生活は、私に大きな喜びを感じさせてくれます。
もうひとつ、丁寧に忍耐強くサポートをしてくださる方々のおかげで、IT機器が使用できるようになりましたことも、全く想像していなかった老後の生活です。私がパソコンを初めて使用したのは、2013年でした。それまでは、ITは自分には関係のないもの、若い人がするもの、できる人がするものと思っていて、ほとんど関心がありませんでした。ところが、スキャナーで文書を読み取り、それをパソコンで読ませ、私にも利用できるとお勧めいただきました。丁寧なサポートをいただきながら、少しづつ習得していき、難しいことはできませんが、メールをしたり、ホームページを開いたり、ネット放送を聞いたりなどの自分のしたいことが何とかできるようになり、そのことに喜びを覚えるようになりました。そして、それから数年たった頃から、パソコンで少し自信が持てたのか、スマートフォンへと関心が広がっていきました。2020年からは、スマートフォンも使い始めました。やはり、これもサポートをいただき、繰り返し繰り返し様々な指のジェスチャーを練習し、視覚障害者のための特別な操作方法を学習していきました。おかげで現在は、静岡県を中心として、数県の視覚障害者の皆さんで結成するグループに所属し、zoomやLineを使って、交流をしています。グループの皆さんとの勉強会やミーティングに参加して、色々な情報をいただく中で交流を深め、日曜日の午後には、有意義で楽しい時を過ごしています。IT機器を使用できるようになったことにより、世界がぐっと広がり、生活が豊かになったように感じています。
こうして充実した人生の最後のステージを過ごさせていただいていますのも、いつも寄り添っていてくださるホームの職員の方々、利用者の皆さん、そしてIT機器を丁寧に忍耐強くサポートしてくださる方々がいらしてくださるからこそであり、たいへん感謝しております。これからの余生も、ホームの皆さんと共に、大切に明るく丁寧に過ごしていきたいと思っています。