社会福祉法人山梨ライトハウス

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曲名:青い鳥 作詞:竹内秀秋
作曲:一瀬公弘

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白い杖愛護作文

第69回 白い杖愛護作文受賞者

小学校低学年の部

学 校 名 学年 受賞者名 題 名
最優秀 甲府市立羽黒小学校 室山 紬稀むろやま つむぎ 「わたしのひいおじいちゃん」
優秀 山梨学院小学校 丸山まるやま ゆず 白じょう

小学校高学年の部

学 校 名 学年 受賞者名 題 名
最優秀 甲府市立東小学校 田中 有莉たなか ゆうり 視覚障がい者の現状と支えん
優 秀 甲府市立朝日小学校 三浦 星蘭みうら そら 犬と共に暮らす
優 秀 甲府市立羽黒小学校 輿石 結愛こしいし ゆあ 新しい未来に向けて
優 秀 甲府市立大国小学校 茂手木 心翔もてぎ まなと これからぼくたちにできること
優 秀 山梨学院小学校 小林 那奈こばやし なな 「まずは関心を持とう」
優 秀 山梨学院小学校 吉田 怜一よしだ れいいち 言葉の大切さ

中学校の部

学 校 名 学年 受賞者名 題 名
最優秀 山梨大学教育学部附属中学校 堀之内 颯ほりのうち いぶき 「できる」を信じて
優 秀 甲府市立西中学校 岡室 成おかむろ なる 理解したいと思ったきっかけ
優 秀 甲府市立北中学校 佐藤 優香さとう ゆうか 本を選べる楽しさ
優 秀 昭和町立押原中学校 忠本 美優ただもと みゅう 「個性溢れた世界へ」
優 秀 北杜市立甲陵中学校 茂手木 志保もてぎ しほ ブラインドサッカーから学んだこと
優 秀 山梨英和中学校 梶山 薫子かじやま かおるこ 「観たくても観られない」をなくす

高等学校の部

学 校 名 学年 受賞者名 題 名
最優秀 甲斐清和高等学校 望月もちづき このみ 心を通わせて
優 秀 山梨県立山梨高等学校 大村おおむら すず 「安心の輪を広げて」
優 秀 山梨県立山梨高等学校 小室 遥輝こむろ はるき 自分にできること
優 秀 山梨県立山梨高等学校 野澤 幸矢のざわ ゆきや 障害者とどう関わっていきたいか
優 秀 山梨英和高等学校 小栗おぐり あやな 今年の夏休み
優 秀 甲斐清和高等学校 野口 愛莉のぐち あいり 幸せのカタチ

第69回 生活体験文受賞者

児童生徒の部

部・科および学年 受賞者名 題 名
最優秀 山梨県立盲学校高等部本科普通科2年 山口 穂乃華やまぐち ほのか 伝えることの難しさ
優 秀 山梨県立盲学校小学部1年 藤田 莉緒ふじた りお もうがっこうの一ばん
優 秀 山梨県立盲学校小学部3年 渡邊わたなべ れみ 寄宿舎での生活
優 秀 山梨県立盲学校小学部6年 星野 春ほしの はる 話すためには
優 秀 山梨県立盲学校高等部本科普通科1年 小俣 凜太朗おまた りんたろう

一般の部

住 所 地 受賞者名 題 名
最優秀 笛 吹 市 小林 文雄こばやし ふみお 人生を振り返って
優 秀 南アルプス市 淡路 久あわじ ひさし ぬか床と俺
優 秀 身 延 町 平田 政夫ひらた まさお 目が見えなくなって見えるようになった事
優 秀 笛 吹 市 山内 美和やまうち みわ ニットソーイング

白い杖愛護作文最優秀作品

《小学校低学年の部》

「わたしのひいおじいちゃん」

甲府市立羽黒小学校二年 室山むろやま つむぎ

 わたしには、目がふじゆうなひいおじいちゃんがいます。ひいおじいちゃんは、子どものころやきゅうが大すきで、いつも友だちとやきゅうをしていたそうです。そんなある日、キャッチャーをしていたら、友だちのうったボールがかた目にあたり、大けがをして、目が見えなくなってしまいました。大人になるにつれて、もうかた方の目も見えなくなり、りょう目がしつめいしました。とつぜん見えていたものやけ色がくらくなるのは、とてもつらくてこわかったと思います。ひいおじいちゃんは、目が見えないながらも、色んなしごとをしていましたが、あるとき、一人の人にであって天しょくにめぐり会えました。それは、しんきゅうしです。しんきゅうとは、はりやおきゅうをつかって、体のわるいところやいたいところをなおしていくしごとです。ひいおじいちゃんは、二十二さいで、目の見えない人が通うもう学校に行って、五年かんいっぱいべんきょうをして、しんきゅうしになりました。そして、やく六十年近くしんきゅうしをつづけています。今までなん千人のかんじゃさんのいたみをなおしてきました。今でも町で、むかしからのかんじゃさんに会うと、「あのときは、ありがとうございました。」と言われるそうです。そんなひいおじいちゃんに、「目が見えなくて大へんじゃないの?」と聞くと、「ふじゆうなりにやっているよ。」と言っていました。目がふじゆうだからと言って、一人でかなしむことはなく、手や耳をつかって、色んな人をすくったり、よりそえるひいおじいちゃんは、かっこよくて、すごい人だと思いました。わたしも、ひいおじいちゃんのように、だれかのためになれる人になりたいなと思います。

《小学校高学年の部》

視覚障がい者の現状と支えん

甲府市立東小学校五年 田中 有莉たなか ゆうり

 障がい者について、本で学ぶだけではわからないことを実際に自分の目で見て確かめてみたいと思い、「盲導犬学習会」に参加した。視覚障がい者は、まったく見えない人だけでなく、見えにくい人もいることを知った。見える部分がせまい視野きょうさく、中心が見えない中心暗転、全体が白っぽく見える白だくがある。しょう状によって支えんの方法がちがうことがわかった。また、視覚障がい者が外出する方法に、白じょうを使う、人の力を借りる、盲導犬と歩くという三つがある。盲導犬と歩く際は、盲導犬が左側を歩いている。盲導犬のはいせつも、決まった時間にできるよう子犬のころから訓練されていて、おもちゃを使って遊びながら、ほめ言葉をたくさん使ってなれさせていた。
 盲導犬学習会に参加して、もっと勉強をするために、盲導犬の訓練をしている「富士ハーネス」に見学に行った。そこで、視覚障がい者とお話をした。困っていたら周囲の人が助けてあげることが大切だと思った。例えば、電車の中で席が空いていてもわからないので、声をかけてゆうどうすることが大切である。他に、白じょうを使って歩くよりも盲導犬の方が速く歩け、道に迷った時にも盲導犬に声をかけていると、周囲の人が気づいてくれるというメリットもある。盲導犬は視覚障がい者の大切なパートナーであり、仲間だということがわかった。
 障がいがある人もない人も差別なく共に暮らせる社会を実現するためには、困っている人がいたら積極的に声をかけ手助けすることが大切だと思う。しかし、手助けの方法は、障がいやしょう状によってちがう。しっかり的確な手助けをするには、自分がさまざまな障がいやしょう状を勉強して、実際何に困っているかを理解する必要があると考えた。

《中学校の部》

「できる」を信じて

山梨大学教育学部附属中学校二年 堀之内 颯ほりのうち いぶき

 ある番組を見て、目の不自由な母親の気持ちを知りました。この母親は出産の際、他の母親が普通にしている「母子同室」を病院側から断られてしまったそうです。「目が見えないと赤ちゃんをベッドから落としてしまう危険があるから」という理由で。様々な案を出し、何度も認めてもらおうとしたけれど結局認めてもらえずとても悲しい思いをしたそうです。
 僕は以前、目の見えない夫婦が子供を育てるという番組を見た事があったのを思い出しました。ミルク作りもオムツ替えも自分達の指や手の感覚をたよりにとても上手にこなしていました。困り事もたくさん出てくるのですが、その都度工夫を凝らして乗り越えていく夫婦の姿がとても印象的でした。僕もこの番組を見るまでは、ベッドから赤ちゃんを落としてしまわないかと不安に思いましたが、きちんとベッドの柵を手でたどって確認し、赤ちゃんを抱っこする時も丁寧に抱き上げている様子を見ていらない心配だったと思えたのです。
 先程の母親はもう一つ、こんな話もしてくれました。三歳になった娘を連れて公的な機関にある書類を出しに行った時、役所の方が自分ではなく、三歳の娘に向かって「ここにお母さんのお名前書けるかな?」と聞いたそうです。書く場所さえ教えてもらえれば字はわかるので自分で書けるのにと、とてもショックだったそうです。きっと書けないだろうと思われたショックと、自分がそこに存在しているのにまるで透明人間のような扱いを受けた事に二度傷付いたそうです。先の病院の件は母子の安全の為に、役所の件は、書くことができるか本人に聞くのも申し訳ないという思いやりだったのかもしれません。
 僕はハッとしました。僕も以前、横断歩道を渡ろうとしている白杖の方を見つけ、困っているに違いないと思い込み道を渡るお手伝いをさせてもらった事があります。その方はとても喜んで下さったけれど、僕の勝手な思い込みで、「本当は一人でできるのに」と先回りされてしまった事にモヤモヤした気持ちになっていたかもしれません。「できないだろう」という思い込みが「できる」の芽をつぶし、その方の自信まで失わせてしまっていたかもしれないのです。これでは完全に思いやりの一方通行です。
 ではどうしたら良いか。それは「できる」力を信じることではないでしょうか。その人の「できる」に目を向け、その人の力を信じ、静かに見守ることも大切だと今回の件で気が付く事ができました。五感に優れ、前向きで明るく優しいステキな人達が、決して透明人間にならないように、僕達が本人に向かって話しかけ、本人の意志を大切にし、一人一人が輝ける温かい社会を作っていきたいです。

《高校の部》

心を通わせて

甲斐清和高等学校二年 望月もちづき このみ

 私が目の不自由な人との交流を通じて感じたことは、積極的に自分から声をかけ、コミュニケーションを図っていこうとする姿勢の大切さです。
 私は高校一年生の時に授業の一環で行った講演会で、初めて目の不自由な人の実際の生活の様子について触れました。講師として話をしてくださった方が、しきりに「何でもいいから、皆さんの方から声をかけてほしい」と話していたことが印象に残っています。
 声をかける時には具体的な情報を伝えることが大切です。「もうちょっと進んでください」「あっちに〇〇があります」という説明では、対象物と実際にどのくらいの距離があるのか、対象物が前後左右どちらの方向にあるのか、わかりません。目が不自由であっても、具体的な距離や方向を確認してもらえるよう、具体的な数値や方向を言葉で伝えることが大切です。目からの情報がつかめない、つかみにくいとはどういう状況なのか、障害を抱える方の困りごとを想像したり、理解したりすることで初めて、その人がどんな支援を必要としているのか考えることができます。また、いきなり声をかけてしまっては見えていない相手を驚かせてしまうので、目の不自由な方に対しては見えている私たちの方から声をかけるようにします。何か特別で大きなサポートをしようと力む必要などなく、同じ地域に住む仲間のような意識で接していくことで自然と互いの心の距離が縮まっていくのではないかと、私は考えます。
 他にも町を歩いていて見かけることのある点字ブロックも目の不自由な人にとっては重要なものの一つです。普段自転車通学をしている私も特に悪気もなく、ふと点字ブロックの上に自転車を停めてしまったり、交差点の信号待ちで点字ブロックに立ち止まってしまったりすることがあります。点字ブロックを必要としている人のことを考えられなかったからこそ、そうした行動に至ってしまうのです。私たちが生活する地域にはさまざまな人が生活していることを一人ひとりが認識することで、多くの人が快適に暮らせる環境が整っていきます。快適に生活するための環境はみんなで作っていくものです。障害の有無はもちろん、障害の種類や程度などにとらわれず、すべての人が自由に安心して、のびのびとした生活が送れるような社会にしていくために必要なものは何か。それは対話することでしょう。
 どんなに時代が進んでも完璧な社会になることなんてきっとありません。だからこそ、私たちは考え続けなければならないのです。何があったらより良いのか、わからないながらも考え続けることを私自身、これからも続けるとともにさまざまな人と対話し、心を通わせる努力を続けていこうと思います。

生活体験文最優秀作品

《児童生徒の部》

伝えることの難しさ

山梨県立盲学校 高等部本科普通科二年 山口 穂乃華やまぐち ほのか

 誰かに何かを伝えること。それはとても難しいことだと思います。私にとって何かを相手に伝えることはとても難しく、苦手なことです。自分の好きなこと、苦手なこと、何かに対しての自分の意見など、どんなに些細なことでも相手に伝えようとするととても怖くなってしまいます。それは高校生になった今でも変わらず苦手なままでした。
 小学校低学年のときは今よりは自分のことを伝えられていたと思います。高学年になってから自分のことを伝えることが怖くなっていきました。私が視覚に障がいがあって周りの人よりも見えにくいことをだんだんと理解してきていた頃でした。中学校へ進学するにあたって、自分の見え方やどうしたら勉強しやすいのかなどを自分で伝えられないといけないということで練習が始まりました。自分の視力や視野、使っているレンズについてなど、まずはクラスの人に伝えました。クラスの人たちは私の話をしっかり聞いてくれて困っている時に声をかけてくれるようになりました。自分で伝えることができたことにとても喜びました。そしてほとんどの人が私の見え方を知った頃、理解してくれる人もいたけれど、私のことを他とは違う人だと壁をつくる人や、見下してくる人もいました。見え方を伝えたことで少しでも生活しやすくなると思っていたのに、自分が傷つく理由を作ってしまったのです。この時に伝えることの難しさと怖さを知りました。やるべきことをしたはずなのになぜ傷つかないといけないのかと苦しみました。それは見え方に限らず、自分の意見や好きなことなど、自分を表に出すことさえも時間が経つほどにできなくなっていきました。
 それは高校生になっても変わらず、自分を出せないままでした。そんな中で高校生議会という県内の高校生が集まって、意見を県に向けて提言するものに出ることになりました。私が盲学校を代表して意見を出す。そんなこと自分にできるのだろうかと不安と恐怖でいっぱいでした。私は、歩道橋や施設内の階段にコントラストのはっきりした目印や点字ブロックを階段の最初と最後につけてほしいと提言しました。緊張して声も手も震えていて目の前は暗く、頭の中もぐちゃぐちゃになりながら提言したのをよく覚えています。とても怖かったです。でも、この提言を聞いた県の道路などを担当している方が詳しく聞きたいと学校までわざわざ来てくれました。私は具体的な場所をリストにまとめて伝えました。しばらくして、駅の近くの歩道橋を見てみると、階段の段ごとに目印がつけられていました。
 このように理解しようとし動いてくれる人もいることに気づきました。まだ伝えることは怖いけれど大切なことだと感じました。

《一般の部》

人生を振り返って

笛吹市 小林 文雄こばやし ふみお

 昭和二十三年、甲府市相生町に生まれた私には先天性の視覚障がいがあり、視力は明暗の判別ができる程度でした。家族やご近所さんは視覚障がいに理解があり受け入れてくれていたため、幸いなことに生活する上で特に不自由を感じることは少なく、自分では障がいを気にしていませんでした。ある日、舞鶴城公園で盲学校の生徒たちが遊んでいる場面に遭遇し、近所に盲学校があることを知りました。学校の先生の勧めもあり、九歳で県立盲学校初等科に入学。寄宿生活が始まりました。最初に学んだのは点字です。並行して、読み書きなどの勉強もしました。高等科では按摩・マッサージ・鍼灸などの授業があり、将来の身を立てる術を学びました。
 昭和四十五年、二十二歳で盲学校を卒業。母親と一緒に暮らしたいとの思いから、母親の住む八王子へ移ります。ここで鍼灸マッサージ院を開業しました。開業当初は大変でしたが、次第にお客が付きはじめて安定してきました。昭和五十年に盲学校時代の友人に誘われ、八王子視覚障がい者福祉協会に所属。視覚障がい者の生活の向上や、互いの親睦を深めることに尽力し、理事長も務めました。平成二十五年までの三十八年間を、八視協で活動しました。
 平成二十三年に母が他界し、盲導犬と暮らすようになりました。平成二十六年にパーキンソン病との診断を受けます。この病気は生活に支障が出る病気で、徐々に進行していきます。この時六十六歳。病気がなくとも、次第に体がきつくなってきます。盲導犬と共に暮らしてはいますが、日常生活がままならなくなった時のことを考え、体がまだ動けるうちに、身の振り方を決めることにしました。平成二十七年に鍼灸マッサージ院を廃業。私は山梨県出身で、親せきは山梨県にいます。今後は山梨県に帰り、所縁のある山梨ライトハウスの老人ホームに入所し、ここで静かに暮らしたいと思いました。
 平成二十九年に青い鳥老人ホームに入所し、現在に至ります。入所して今年で六年目になりますが、部屋の床の拭き掃除は毎朝しています。体が強張ることもありますが、これもリハビリと叱咤し頑張っています。このままここで、静かに最期を迎えたいと思っています。
 こうして自分の人生を振り返ってみると、障がいを持って生まれ病を患いましたが、非常に穏やかなものでした。その時々で自分の置かれた状況を冷静に判断し、最善の選択をしています。あの時にこうしておけば良かったという後悔はなく、あの時のお陰で今があると考えることが出来ます。置かれた環境の中で、精一杯に生きた結果が「今」です。この先も自分にとって最善の選択をしつつ、穏やかに暮らしていきたいと願います。